溺れそうな暗闇で、照らす光は眩しくて。 第十三話


 朝倉がかける掃除機の音を聞きながら、その後姿を見詰める。遼も掃除機の騒音によって思考を奪われたのか、キーボードを打つ手を止めて腕を伸ばしストレッチをしていた。
 歌いたいと思った。
 それは本当に唐突な欲求で、何かに刺激されてそう思ったわけではないはずだ。
 ただ、純粋に声を出し、新鮮な酸素を吸い込み、歌いたいと思ったのだ。それはお腹が空いたから食事をしたい、眠くなったから寝たい、そういう本能的なものに近い欲求だ。
 歌う事が好きだった。朝倉の弾くギターに合わせて歌う事が、何よりも好きだった。だからそんな欲求を抱く事も何らおかしい事ではない。
 けれど、今のコーキには歌を届けたい相手はいない。歌おうとすれば彼女の事を思い出してしまうから、歌いたくなかったはずだ。コーキは今までの全ての歌を彼女のためだけに捧げてきたのだから。
 部屋の隅には朝倉が持っていた荷物のギターケースが置かれている。このバイトが終わった後に音楽スタジオにでも行くのだろうと予想がついた。
 コーキがこうして遼の元で停滞している間も、時間は等しく過ぎ去っていく。時に勉学に励み、交友関係を広め、技術を研鑽する。そんな事はわかっていたはずだ。だが、今初めて自分だけが取り残されてしまう事を意識し、恐怖を覚えた。
「……ん?」
 コーキの視線に気付いたのか、朝倉は手を止めて首を傾げて視線を返す。
 なんでもない、という風に視線を逸らしてはみたが一歩遅かったようだ。朝倉はコーキの瞳を窺うように腰を折り曲げ覗き込む。
「じろじろ見て何の用?」
 そんなに見ていたつもりはなかったのだが、朝倉がそう言うなら見ていたのだろうか。
 自らの目を覆うように前髪で隠し追及から逃れようとする。
「……別に」
 しかし、無駄に付き合いが長い分、朝倉にはそういった誤魔化しが一切通用しない。鋭い視線を感じて誤魔化すことを諦め、渋々と口を開く。
「……新しいボーカル、決まったのかなって」
 新しいボーカル、とは朝倉と組んでいたバンドのボーカルの話だった。コーキがメインボーカルを務め、朝倉がギターを弾いていた。それにベースの茜とドラムの晃の四人からなるバンドだった。コーキが姿を消すまでは月に二回は地元のライブハウスで演奏し、週に一度は練習のために皆で集まっていた。近頃は地道な活動がようやく実り、ワンマンライブを行える程度の人気と実力をつけていた。
 突然姿を消したのだから迷惑をかけている事は明白だ。――あの頃は、もう二度と朝倉に会うつもりもなかった。本当に切り捨てるつもりだったのだ。
「はあ? 新しいボーカルなんて入れるわけないだろ」
 だが、朝倉は呆れたような素っ頓狂な声を出す。
 正直なところ、あのバンドで歌えるのは自分だけだという自負があった。けれど、誰かに迷惑をかけてしまうのなら、誰かに譲ってもいいとも思っていた。
「なんで、ボーカルいないと困るだろ」
 朝倉の答えに僅かに安堵するが、その安堵を見抜かれないよう表情を硬くし、床に視線を這わせる。
「広貴(こうき)抜きでうちのバンドは成立しないし、とりあえず今は活動休止中」
 必要とされているのだろうか。迷惑をかけてしまったのに。
「……でも、俺はもう歌わない。みんなに迷惑かけるから解散でもなんでもすればいいと思う」
 歌いたい、と思っても歌えるわけではない。それに今すぐ戻ったところで、遼の元で過ごしたこの数か月、全く歌っていなかったのだから以前のように歌えるようになるにはしばらく時間がかかるだろう。自分が誰かの足を引っ張ってしまう事が嫌だった。
「するわけない」
 けれど、朝倉はそれを即答で否定した。口調は力強く、揺るぎのないものだった。
「……なんで」
 だから、ほんの少しだけ期待してしまう。こんな自分でも未来があるのだ、と期待してしまう。
「いつでも好きな時に帰ってこればいいよ。みんな待ってるんだから」
 朝倉の言葉がじんわりと染み入るかのようだった。
「……みんなって、誰だよ」
 それなのに悪態をついてしまうのは何故だろうか。
 朝倉は指を折り、数えながら言葉を紡ぐ。
「茜に晃に、ファンの子たちからも復活待ってるって応援メール結構届いてるっぽい。それに俺も待ってる」
 誰かに待たれている。待ってもらっている。帰りを待ってくれている人がいる。
 そう思うと今すぐにでも帰りたい衝動があった。
「……俺」
 しかし、言いかけた言葉は遼にかき消されてしまう。
「コーキくん、寝室、行こうか」
 どうして今更帰れるというのだろうか。待ってくれているはずの人たちを切り捨て、ペットという立場を選んだのはコーキ自身だ。



 うつ伏せの全裸で膝をつき、尻を高く掲げた状態で両腕を頭上で一纏めにされて鎖で繋がれている。膝と胸で身体を支えた体勢で腰を振り、勃起したペニスをシーツに擦りつけていた。
「い、あ……足りないっ……!」
 シーツに擦りつけたところで得られる刺激はそう強くない。飢えた身体を満たすには到底足りない刺激だった。
 後孔は咥えるものを求めて何度もひくつくが、そこをいじる者はいない。密室となった寝室でコーキを見ているのは三脚に設置されたビデオカメラだけだった。
 ほんの十数分前、遼に打たれた薬は血流にのってすぐに全身を駆け巡った。頭がぼんやりとし、同時に燃え盛る体内の熱を感じた。荒くなった呼吸は快感を求めて彷徨うが、身体を拘束されていてはどうしようもない。
 解放する事の出来ない熱にすすり泣き、声をあげて遼を呼ぶ。
「遼さん! おねが、はやくっ……!」
 腹筋に力を入れ、隣の部屋にいるはずの遼に訴える。意識して大きな声を出すなんて随分と久しぶりだった。この扉の向こうにいる朝倉にも聞こえているのかもしれない。だが、そんな事に構っている余裕などなかった。
 薬の影響のせいか尻や性器がじくじくと疼き一刻もはやく快感を求めている。そこに与えられる刺激を想像しただけで意識が飛びそうなくらいに興奮していた。
「遼さん……!」
 ペニスを擦りつけているシーツには既に染みが出来ている。一緒に押し付けてしまう乳首も熱を持って膨れていた。
 快感が欲しかった。
 腰骨を掴まれ、本来であれば受け入れるような場所ではないところを穿たれ、声の限り喘ぎたかった。前立腺だけを捏ねまわされ、何も考えれないモノになってしまう愉悦に溺れたかった。
 例え誰かの玩具にされるのであったとしても、快感さえあればそれだけで良かった。
 何度遼の名前を呼んだ頃だっただろうか。寝室の扉は唐突に開き遼が顔を出した。
「コーキくん、うるさいよ」
 そう言った遼の声は低く、眉間には皺が寄っている。不機嫌である事は誰の目に見ても明らかだろう。
「遼さんっ……! ごめんなさい、ごめんなさい……! 気持ち良く、なりたくて……!」
 シーツに頬を擦りつけほとんど泣いているような声で遼に愉悦を強請る。もう何かを待てる余裕もなく、今すぐに絶頂を迎えたかった。
「はぁ……」
 遼は深い溜息を吐き、呆れたようにコーキを見る。
「とんだ淫乱だね。ちょっと薬打っただけでそんなになるの、可愛いとは思うけど面倒だよ。……それに、朝倉くんもいるのに」
 その言葉に、はっと遼を見るとその背の向こうには朝倉の姿があった。
「シン……」
 今自分がどんな姿をしているのか、何を強請っていたのか、その全てを朝倉に見られていた――。絶望にも近い何かが身体を占拠したが、それは一瞬でどこかへと消え去る。
 遼はコーキの腕は拘束したまま身体をひっくり返し仰向けにすると、尻の下にクッションを入れて足を大きく開かせる。蛍光灯の明かりでひくつく後孔とはしたなく勃起したペニスが晒された。
 じくじくと体内で疼く熱は青ざめた顔をした朝倉の視線を受けて更に燃え上がるのだ。
 コーキは、自分を見下ろす瞳に、縋るような眼差しを向ける。朝倉の視線が突き刺さっている事も構わず、淫らに腰をくねらせた。
「おちんちん……ください……」
 おねだりの方法は、ここに来たばかりの頃に遼に教えられたものだ。教えられた通り忠実に乞うと、遼は呆れたような笑みを浮かべてから穿いているスラックスの前を寛げ、萎えたペニスを取り出す。幾度か扱くと挿入に差しさわりのない硬度を得たらしく、ひくつく後孔にあてがわれた。
「あっ……」
 体内を押し開かれるその瞬間は、何度経験しても慣れる事はない。違和感と圧迫感が続き、けれど全て飲み込み終える頃には充足感へと変わる。その瞬間が好きだった。
 ずぶり、と刺し貫かれ、欲しかった刺激を与えられた事で目の前に火花が散る。
「あ、あっ……遼……さんっ……!」
 色付いた甘えた声が喉から溢れ出る。朝倉とは長年一緒にいるが、そんな声を聴かせるのは初めてだ。遼の腰に足を絡め、より奥深くへ受け入れようと腰を揺らめかした。
「淫乱なコーキくんが好きだよ」
 遼は耳元で囁きながら、コーキへ腰を打ち付けた。真上から掘削するように打ち込まれ内壁を抉られる。体内に飲み込んだ男根はコーキの思考を奪う凶器となる。
「ひっ……! あぅ! そこぉ……!」
 突きこまれる度に張り出たカリが内壁を強く擦っていく。髪を振り乱し燃え盛る愉悦に沈んで溺れた。
「イっ……イクっ! イクからぁ!」
 精道を熱い液体が駆け抜け、この上のない絶頂へと導かれる。白濁を振りまき自らを汚し――
「はる、か、さん……! ダメぇ……! も、イったから……!」
 けれど、快感は終わらない。
 絶頂を迎えているその間にも絶え間なく前立腺を擦られ続け、頭の芯が湧きたつような錯覚を覚える。
「気持ちよさそうにしてて、可愛い」
 遼は乱れた呼吸でうっとりとそう呟いた。
「あああああっ!」
 許容量を超えた快楽が身体を侵しコーキからなけなしの理性を奪い去っていく。
 前立腺を捏ねられると腰が揺れ、更なる快楽を求めてしまう。
 後孔は無意識に男根を締め付け、男の精を奪い取ろうと蠕動を繰り返した。それに応えるよう、遼は最奥に子種を流し込む。
「んっ……」
 体内に熱い液体を浴びせかけられ息を詰めた。脈打つ男根を引き抜かれるのは名残惜しく鼻を鳴らして別れを嘆く。
 一度絶頂を迎えたとしても、薬で強制的に昂らされた身体はまだ熱をわだかまらせていた。
 まだ足りない、と遼に視線を投げかけると、遼はにこりと笑む。
「朝倉くん、次はキミが抱いてあげたら?」
 寝室の扉からすぐの場所に引き攣った顔でコーキを見詰めていた朝倉にむかって言うと、朝倉は唇を噛みながら視線を逸らした。
「そ、そんな事するはずないじゃないですか……。それに広貴(こうき)もこんなに痩せて……! あんた、一体広貴に何やってるんですか……!?」
 コーキは視界に映る自身の身体を見る。そんなに意識していなかったが、こうして改めて見ると以前に比べれば随分と痩せてしまった。無駄な脂肪も、そして必要な脂肪も落ちてしまっている事はよくわかる。筋肉も随分やつれたようで、身体が一回り小さくなったようだ。――それも、今の生活を思えば当然の事だった。
「……俺が選んだ事だから、遼さんは悪くない」
 全ての原因は自分にあって、遼に非はないはずだ。朝倉を睨むと視線が絡んだ。
 よく知っているはずの友人の瞳は、見た事のない憐憫を帯びた色になっていた。自分の映った朝倉の瞳はどこか悲しげで、どうしようもないくらいに沈んでいる。
「朝倉くんさ、勃起してるよね? 服の上からでもわかるよ」
 遼の言葉に促され親友の股間を見てみれば、一目でそうとわかる程に布が張り詰めていた。
 自分の姿を見てそうなったのだとすれば――ずくりと体内の熱が燃え上がる。親友に欲情する趣味は持ち合わせていない。男とのセックスを許容出来たのは、他人である遼相手だったからだ。
 それに、朝倉はかけがえのない親友で、これからもその関係を崩したくなかった。崩したくない、などと思いながらも一度は捨てた関係だった。亡くなった彼女も、これまで築いてきた友人も、全てを断ち切って遼の元へと逃げた。それなのに今更崩したくない、なんて道理はどこに通るというのだろうか。
 自嘲の笑みをかみ殺し、絶望にも似た気分で朝倉へ微笑んだ。
「ねぇ、抱いてよ。……まだ足りないから、もっと気持ち良くなりたいから」
 言葉にすればより一層燃え上がるようで、遼の放出した白濁を内包した粘膜が蠢く。これまでに見ず知らずの男の性器を受け入れた事だってある。親友のそれを受け入れたところで何かが変わるわけでもない。
 そう言い聞かせて、朝倉を誘う。
「コーキくんもこう言ってる事だし、抱いてあげたら?」
 遼は朝倉の横を通り過ぎ、寝室の扉を背もたれにして腕を組んだ。
「キミがコーキくんを抱くまで、ここは開けてあげないから」
 挑発するような口調だが、その真意が読めなかったのであろう朝倉は首を傾げた。
「……それで、あんたに何のメリットがあるんですか」
「キミに抱かれてるコーキくんが見たいだけだよ」
 さも当然の事であるかのような口ぶりの答えに、朝倉は絶句しコーキは肩を竦める。遼の考える事は最近になってようやく読めるようになってきた。
「シン、はやく」
 コーキは先ほど絶頂を迎えたばかりだと言うのに萎えないままのそれを見せつけ、唇を舐めて濡らす。
 鼓動がうるさい程に高鳴っているのは興奮のせいなのか、それとも罪悪感のせいなのか。
 ふらふらと吸い寄せられるように歩む朝倉は、ベッドの前で足を止めた。
 コーキに女性経験があったように朝倉にもそれなりの経験があったはずだ。朝倉はコーキの痴態を前にごくりと唾液を飲む。
 その朝倉に見せつけるように限界まで股を開き、中心にある孔をひくつかせる。先ほどまで男根を飲み込んでいた孔は大きく口を開き、飲み込めるものを探していた。
「ちくしょ……!」
 怒りを伴う性衝動に突き動かされたのか、朝倉はデニムパンツのベルトとジッパーを寛げながらベッドへと乗り上げ、取り出した男根を誘うコーキの後孔へ勢いよく突き入れた。
「ひっ――!」
 欲しかったものを与えられる。幾人もの男を受け入れたが、自分と同年代の男を受け入れるのは初めてだった。
 若さ故なのか身体全体が跳ね上がる程に強く激しく突かれこみ上げる愉悦と罪悪感に悲鳴をあげる。硬い男根が奥深くを突いて、遼の出した白濁をかきまぜた。
 中学生の頃から一緒だった親友は、楽しい時も辛い時も一緒に過ごした。学校生活を共にしテストの点数を競ったり、同じ音楽と言う趣味で技術の向上を目指し互いに研鑽した。実った結果に笑いあい、時には苦しさや悲しさだって共有した。
 そして今は、性欲に突き動かされ快感を共有している。それがとてつもなく悲しかった。取り返しのつかない過ちなのだとわかっていながら、そこに進まずにはいられなかった。
 自らの愚鈍さに絶望し悔し涙を流す。
 こんなはずではなかった。
 けれど、それも自ら望んで受け入れた事だ。嫌がる朝倉を誘った罪は消える事なくつきまとうはずだ。
 罪はやがて痛みになる。
 痛みが欲しかった。生きている証になる痛みが欲しかった。
「シ……ン……」
 自らの上で腰を振る朝倉を見上げる。涙はとめどなく溢れ続けている。
 起こってしまった事を全てなかった事にしたかった。遼のペットになる前の生活に戻りたかった。
 遼と過ごす日々は楽しかった。自分の思考さえやめてしまえば、遼の言いなりにさえなっておけば、何も考えずに済んだのだから。全てを忘れる事が出来たのだから。
 けれど、コーキのやりたかった事はそうではない。
 自分の足で歩いていたかった。
 彼女が死んでしまった現実はもう覆す事は出来ない。だからせめて、それを受け止める努力をしたかった。
 まだ歌えない歌を、いつか歌えるようになりたかった。全うな食事をし、自ら思考し、歩んでいたかった。
「助けて……」
 涙に濡れた声は、か細く望みを伝えた。







 次に目が覚めたのは、見覚えのない天井の下だった。
 唐突すぎて一体何が夢でどこからが現実なのか区別がつかなかった。
 慌てて飛び起きようとすると、腕には点滴の針がささっていた。特徴的な消毒薬の匂いと、白を基調とした部屋はどうやら病院の一室らしい。
 ひょっとして全て夢だったのではないか――。そう思いかけたが、痩せ落ちた自分の手がそうではない事を物語っている。
 ベッドの中で記憶を手繰り寄せる。最後の記憶は朝倉に抱かれた時のものだった。引き抜かれた男根の感触はまざまざと思いかえせる程に覚えている。それから――炎が静まるようにゆっくりと視界が暗くなり、意識を手放した。
 意識を失ったから病院に運ばれた、という事なのだろうか。
「目、覚めた?」
 突然かけられた声に、驚いてそちらの方を見るとベッドの脇にあるパイプ椅子には朝倉が座っていた。部屋の中に一人きりではなかったのだと気付き改めて部屋を見回すが、どうやらこの部屋の中には朝倉とコーキの二人きりのようだ。
「……ああ」
 もう全てを知っている親友だというのに、少しだけ気恥ずかしいのはなぜだろうか。朝倉は読みかけだった雑誌を閉じ、座っているパイプ椅子をぎぎと床に引き摺りながらベッドの方へと寄せた。
「広貴(こうき)、突然倒れたんだからびっくりした。とりあえず栄養失調らしくて何日か入院しろって」
 意識を手放す事はいつもの事でも、今日は少しばかり事情が違ったようだ。栄養が足りていない自覚はあったがまさか倒れるとは思っていなかった。
「ここまで朝倉が運んでくれたのか?」
 流れる点滴液を見詰めながら朝倉に問う。病院という空間は酷く非現実的で、まだやはり夢なのではないかと思った。
「うん。松風さんは乗り気じゃなかったんだけど、すげー顔色悪かったし連れてきて正解だった」
 松風――とは遼の事だ。普段苗字を聞く事があまりないので、松風、と言われてもいまいちピンとこない。
 朝倉がいなければ、ひょっとしてあの部屋で死んでいたのかもしれない。――今日のこのタイミングでなくても、病院にも行かずあの生活を続けていれば遠からず命に係わる事態になっていたはずだ。
 それを思うと目の奥が熱くなり、朝倉にそれと気付かれぬよう腕を瞼の上に置く。
 もしも死んでいれば、それはそれで幸せだったのかもしれない。生きていたところで、どうせもう彼女はいないのだから。
「……さっきは、ごめんな。その、……お前が倒れる前の、コト。俺、どうかしてた」
 あわよくば死ぬことが出来ればいいと思っていた。彼女と離れたくないのに、自殺をする勇気はなかった。けれど自分の人生はどうでもよくて、遼に全てを委ねてしまえばいいと思っていた。誰かに抱かれたところで何かが変わるわけでもない。
 自分を傷付ける事で、生きている罪を償いたかった。
 朝倉の言葉がじんわりと染み入る。朝倉に非はないはずだ。誘ったのはコーキ自身で、傷付きたいと願ったのはコーキ自身だ。
「……俺、何やってるんだろ」
 震えた声が溢れ、堪えていたはずの涙が零れる。
 こんなはずではなかった。
 何かをしたところで彼女が戻ってくるわけでもないし、死んだところで彼女と一緒になれるわけではない。自分を傷付けても罪を償えるわけではないし、そもそも罪など存在しない。
 今のこの姿を見れば、彼女は哀しむだろう。
 そんな事は初めからわかっていた。
 わかっていたけれど、そうせずにはいられなかった。現実から目を逸らして逃げなければ、自我を保つ事が出来なかった。
「戻ってこいよ。……みんな、待ってるから」
 戻るべき場所がある。もう彼女はいないけれど、楽しかった場所へ戻る事が出来る。自分の足で歩く事の出来る道へ戻る事が出来る。
 とめどなく溢れる涙を見られたくなくて、目を覆ったまま頷いた。



「あ、もう起きてた? 大丈夫? さっきそこで朝倉くんとすれ違ったけどなにか喋った? 栄養失調なんだってね、やっぱりちゃんと食べないとだめだね」
 遼はいつもと何も変わらない調子でベッドサイドのパイプ椅子に腰かける。遼とはずっと過ごしていたはずなのに、家の外に出るのは初めて会った時以来だ。新鮮ではあったが違和感が先だってしまう。
「……なんか、すみません」
 遼の顔を見る事が出来ず、天井を見詰めたまま声を出した。ほんのつい先ほどまで泣いていたせいか、まだ目が腫れている。
「いーんだよ、別に。それに病院まで連れていくって決めたのは朝倉くんで、タクシーの手配とかも朝倉くんがしてくれたんだよ」
 訊きなれた声が耳を通り抜ける。朝倉にまで迷惑をかけてしまったのかと思うと申し訳なくて、そして有難かった。
 遼は優しかった。ペットとして甘やかされ、愛玩され、その生活自体に文句はなかった。だから今まで、その生活を捨てる事を、遼の優しさを裏切ってしまう事を躊躇していた。
「あの、遼さん」
 けれど、もう今は躊躇しない。
「ん?」
 自らの足で踏み出すには、きっといい頃合いなのだろう。
 自分にとって大事なものをこれ以上失ってしまう前に、立ち上がらなければいけなかった。
「ペット、やめたいです」
 声は落ち着いていて、真っ直ぐ天井へと吸い込まれていく。遼の反応がどうなのか、少しだけ怖かった。だが、遼は意外にもそれをすんなりと受け入れた。
「……そう言われると思ってた」
 肩を竦め、初めて会った時のような柔和な笑みを浮かべる。
 そこでようやく、コーキは遼の方を見た。遼はコーキの額に手を伸ばし掛け、けれど触れる直前で手を引っ込める。
「点滴、あと三十分くらいで終わるらしくて、終わる頃に朝倉くんが来てくれると思う。キミが着てきた服と財布とかはまた今度朝倉くんに預けておくよ」
 遼との別れを惜しむつもりはなかった。それなのに、立ち上がって背を向けた遼を見ると引きとめたくなってしまう。ぬるま湯のようで心地よかったあの生活に戻りたいと思ってしまう。自分を見失ったまま、遼の傍にいる生活を求めてしまう。
 出そうになるそれらの言葉を堪えて、別れの言葉を紡ぐ。
「さよなら」
 部屋の扉を開き出て行く遼は、その別れの言葉に返事もせず、振り返る事もなく、その場を去った。
 こうしてコーキのペット生活はあっけなく幕を閉じた。
 一筋零れてしまった涙を手の甲で拭い、再び天井を見る。
 寄り道をしてしまったけれど、間違ってしまったけれど、致命傷だとは思わない。まだ、やり直せる。そんな気がしていた。


溺れそうな暗闇で、照らす光は眩しくて。 完結


「溺れる事は簡単で、故に難しい。」へ続く



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