溺れそうな暗闇で、照らす光は眩しくて。 第十一話


 家にずっと引きこもっているコーキに、曜日や月日の感覚はあまりない。
その日もいつものように目を覚まし、ベッドから起き上がりリビングへ向かうと
「おはよ」
 と、朝倉がいたものだから、それまで引きずっていた眠気は一瞬でどこかへ飛んでいく。どうやら今日は朝倉が遼の仕事を手伝いに来る日だったようだ。一週間に一度来るとは聞いていたが、それがまさか今日だとは想像もしていなかった。この家に朝倉の姿があるのはどうも違和感を覚える。
「……おはよ」
 思い切り眉を顰めた穏やかでない表情で挨拶を返した。コーキのあからさまに不満げな声色をよそに、朝倉はリビングに掃除機をかけ始める。遼はパソコンデスクに向かっていて、どうやら仕事をしているようだ。いい加減、遼が何の仕事をしているのか訊いてみたいと思わないでもないが、それを訊いたところで何かを手伝せてもらえるわけでもなく、仕事内容を知ったところで意味のない事だと思うと面倒で話しかける気になれなかった。
 リビングの入り口で、遼から与えられた仕事をこなす朝倉の姿をぼんやりと眺め、我に返る。
「あ、あの遼さん……! 着替えって、ありますか……?」
 まさか朝倉がいるなんて思ってもおらず、寝起きの無防備な姿で出てきてしまったが、ようやく自身がどういう恰好をしているのか思い至った。
 ピンク色のショートパンツは太ももが剥き出しになってしまう程の丈で生地も薄く、トランクスの一種だと言っても通用しそうな程だ。尻部分にはうさぎの尻尾を模した白い玉房がついている。上はショートパンツと揃いのパーカーで、前開きにジッパーがついていてフードにはうさぎの耳まで取り付けられていた。下着やパーカーの中に着る服は与えられておらず、素肌にそれらを直接着用している。パーカーのジッパーは下半分まで閉じていて、鎖骨から胸にかけてが露わになっている。
 成人した男性が着るには少しばかり悪趣味で、そんな恰好で朝倉の前に出てしまった事に羞恥を覚えながら慌てて遼に訊ねると、遼はそこでようやくコーキの存在に気付いた。遼の集中力は凄まじく、直接声を掛けなければ全て雑音として切り捨てられてしまう事がある。
「ああ……おはよ。服はそのままでいいと思うんだけど、ダメ? 可愛くてとっても似合ってるよ」
 手を止めた遼はコーキににこりと微笑んだ。
 以前、服が嫌だと文句を言った時には酷い目にあった。それを踏まえれば言い返すべきではないのであろう。
 けれど、今日は事情が違う。
「シンがいるし……」
 似合っている、似合っていないの問題ではない。朝倉の視線が気になるのだ。自身のプライドのためと言うよりも、惨状を見せつけられる朝倉の事を慮っての事だった。
「んー……」
 遼は目を眇めコーキをじっと見詰める。何かを考えているのだろうか。自らの顎に手を遣り、思案してるかのように首を傾げる。
「ねぇ朝倉くん」
 掃除機をかけている朝倉を呼び止めると、朝倉は「はい」と遼を振り返った。
「コーキくん、似合ってるよね。わざわざ着替えなくてもあのままでよくない?」
 朝倉はコーキの姿を一度は見ていたはずだが、遼に言われて改めてコーキへと視線を向ける。長年同じ時を過ごした親友に――親友だからこそ、この格好を見られるのが耐えられない程に恥ずかしく、コーキは顔だけをぷいと横に背けた。
 朝倉の眉がほんの僅かに顰められたが、次の瞬間にはまた元通りの表情へと戻っていた。
「はぁ……。別に、いいと思いますけど」
 朝倉は心底どうでもいい、と言った風にやる気なさげな言葉を返す。けれど、遼はその答えに満足したようだ。満面の笑みを浮かべて胸の前で左右の指を軽く交差させた。
「朝倉くんもそのままでいいって言ってるんだし、着替えはなしね」
 遼が決めてしまったのなら、コーキにこれ以上逆らう術はない。こうなってしまっては恥ずかしがるのも癪で、リビングの真ん中にあるソファまでずかずかと進んで腰を下ろす。再開された遼のタイピング音と朝倉のかける掃除機の音に思考を奪われながら、本棚から適当にとった本を読み始めた。
 近頃、何故か本の内容が頭に入ってこない事がある。一度読んでも理解する事が出来ず、二度三度と繰り返し同じ場所を読んでようやく理解するといった具合だ。勿論調子のいい時もあるのだが、おかげで読み進む速度はかなり落ちてしまっていた。元々暇潰しのための読書なのだから、読み進む速度が落ちてもなんら問題はない。
 ソファに仰向けになって身体を横たえ足を組んで読書を開始する。読み始めてからどれくら経った頃だろうか。掃除機は部屋の隅から順番に埃を吸い込み、いよいよソファ周りをかけ始めた。すぐ近くに朝倉の存在を意識しながら、わざとらしく無視して読書へ集中しているフリをする。ソファの周りを掃除機がぐるりと一周したところでその音は止まった。一体何事なのかと気になって窺ってみれば、朝倉は呆れたようにコーキを見下ろしていた。
「……?」
 何か用なのかと手に持っている本から顔を出して朝倉に視線を遣ると、朝倉は大袈裟な溜息を吐いた。とん、と自らの首筋を指さし、口を開く。
「広貴(こうき)……。その服は別にいいんだけど、パンツの隙間から見えてるし、キスマークとかも」
 何が見えているのかすぐに思い当たり、組んでいた足を慌てて解く。下着を着けずにショートパンツを穿けばその中身が見えてしまう事もあると予想できそうなものなのに、うっかりしてしまっていた。パーカーのジッパーを上まで引き上げてみるが一体どの辺りにキスマークがついているのかもわからない。
 朝倉が指さす箇所についているのだとすればそれは首筋で、ジッパーをあげても隠れないのだが胸元を晒しているよりはマシに思えた。
「っていうかさ、お前痩せすぎ。先週より痩せたよな? ちゃんと飯食ってんの?」
 朝倉はコーキの全身をじろりと見回し険しく眉を潜めて睨む。その視線は、コーキがいま気にしているものを貫く視線だった。反射的に朝倉から目を逸らしたが、その動作は図星を突かれ焦っているのだとすぐにわかってしまうそれだ。
「……食ってる」
 食べているのかいないのかと問われればら食べていない方になる。けれど、近頃は遼がスープや粥など喉に流し込めるようなものを作ってくれているので、先週朝倉と会った時よりは食べているはずだ。それでも成人男性の平均どころか、幼児の食事量よりも少ない。
 朝倉は深くため息を吐き、腰に手を当ててコーキを見下ろした。
「食ってるなら痩せないだろ」
 食事量が少なければ体重は維持できない。動かないせいか筋肉量も落ちてきているし、遼から与えられる服も余裕が出てきた。以前はぴったりだったウエストがゴム製のショートパンツも、今では歩く度に下へずり落ちてしまう。
「……」
 反論する事も出来ずに黙りこみ、朝倉の視線から逃れるように寝返りを打つ。
「無視すんなって」
 だが、朝倉はそれで許そうとはしなかった。腰を屈めてコーキの腕をとり、寝返りを阻止する。以前より細くなった腕は朝倉の力を跳ね返す事も出来ず簡単に封じられてしまう。
「別に、俺が痩せようと太ろうとシンには関係ないだろ」
 逸らした目を正面からじっと見詰められ、耐え切れずに顔を横へと背けた。心配してくれているのだという事はよくわかる。よくわかるからこそ、今はその気持ちが耐え切れない程に重い。
「関係ある。友達だろ?」
 本来であれば、友達なんて全て捨ててきたつもりだった。遼のペットになった時点で過去は過去として切り捨ててきたつもりだった。
「そうだっけ?」
 その返答が朝倉を煽るのだと知っていて選ぶ。自嘲の笑みを噛み砕き飲み込んだ。
「は?」
 そして朝倉もそれに乗る。眉間に皺を寄せ怒りを露わにして凄まれると、いくら付き合いが長いとは言え怯んでしまう迫力があった。内心怯んでいる事などおくびにも出さず、その視線を受け止める。
 そのままどれくらいの時が経った頃だろうか。気が付くと遼は既にタイピングをやめていた。
「二人とも喧嘩しない」
 がたり、と音を立てて席から立ちあがり、険のある声で睨みあう二人へ呼びかける。親が子を叱りつける時のような厳しい声だった。
「……すみません」
「…………」
 その声に我に返り、朝倉は謝罪の言葉を口にした。が、コーキは黙りこくったままだ。そもそも喧嘩を売ってきたのは朝倉なのだから自分は悪くないと思っていた。人の拒絶を無視して立ち入ろうとした方が悪いのだと、そう思っていた。
「コーキくん」
「……はい」
 けれど、その理論が通らない事もまた理解していた。売られた喧嘩は買うべきではない。――少なくとも、朝倉を煽る必要はなかった。朝倉を煽り怒りを増長させた事に、何か意味はあったのだろうか。コーキは自分自身でもその理由はわからなかった。
「寝室に移動して」
 遼に促されるまま、コーキはけだるげに身体を起こし、無表情で寝室へと移動する。



 コーキを寝室に入れると、朝倉をリビングに取り残したまま遼は寝室の扉の鍵を締めた。ひとまず朝倉に何かを見られる事はなくなったのだと胸をなで下ろす。声色は厳しいが、怒りを含んだものではない。これからの行為は以前のような怒りに任せたものではないようだ。
「僕だって仕事で忙しいんだし、本当ならキミの相手する余裕もないんだけどね。ああいう口喧嘩されると仕事に集中出来ないし困るんだよ。朝倉くんに謝るならこれ以上はしないけど、どうする?」
 遼は手早くベッドメイキングをしながらそう言った。何かを手伝おうとすれば叱られるだけなので、コーキはその背中を見ながら立ち尽くしている。
「……」
「はぁ、好きにすればいいよ。……あんまり仲良さ気だと嫉妬しちゃうし、僕としてはキミがこの部屋にいてくれる方がありかたいんだけどね」
 遼は振り返ったが、何も言わないコーキに呆れてため息を吐いた。ベッドの上から掛け布団を下ろし、枕を定位置にする。首輪に繋げる鎖と両手足を纏める拘束具を取り出した。
「さ、寝転んで」
 何も喋らないまま、遼の言う通りに身体を動かす。首輪にはベッドから繋がる鎖が取り付けられ、左足と左腕、右腕と右足で縛める。そうすると立ちあがる事も寝返りを打つ事も出来なくなってしまう。
「っ……!」
 後孔にチューブ状のローションが挿しこまれ、体内に広がる冷たさに息を詰めた。慣れた身体はそれさえも素直に受け止める事が出来る。
「声出すとリビングまで聞こえちゃうよ? キミ声大きいんだしさ」
 遼は事もなげにそう言って作業を続ける。どうやらあまり手を汚したくないらしく、ローションの入っていたチューブで後孔をかき回した。遼にしては手間を惜しんでいるのは、今がまだ昼間で仕事中だからなのかもしれない。
「それにしても、折角友達が心配してくれてるのに、あんなに突き放した言い方はよくないと思うよ」
 諭すような口調で言う遼はチューブを引き抜くと入れ違いに男根を模した玩具を宛がった。慣らすには不十分すぎる。だが、それでもその玩具を受け入れるに苦労する事はない。僅かな圧迫感と引き攣れるような痛みも、一度体内に飲み込んでしまえばなくなる。体内を侵略するものを感じながら、コーキは口を開いた。
「友達……なんかじゃない」
 昔は友達だったかもしれない。けれど、今は友達ではない。
――朝倉の友達でいられる資格はない。
 言い切って、唇を噛む。朝倉と音楽をやっていた時は毎日が楽しかった。楽しくて互いに上を目指す事が出来ていた。朝倉の弾くギターに身を委ね、最愛の恋人のために歌う事は生き甲斐と言っても過言ではなかった。
 今は全てを切り捨ててしまった。上を目指す事も、歌う事すらも諦めて――封印した。歌う事で、音楽に触れる事で、音楽を好きだった気持ちを、彼女を好きだった気持ちを思い出してしまうからだ。
 だから今は、朝倉の友達でいられる資格はない。上を目指す朝倉の隣にはいられない。傍にいれば朝倉の邪魔になってしまう。朝倉の弾くギターが好きだった。歌うなら、朝倉の弾くギター以外では歌いたくないとすら思っていた。――大切な友達だから。だから、朝倉の邪魔になりたくなかった。
「キミは本当に強情な子だよね」
 体内に玩具が全て収まると、遼はそのスイッチをオンにした。モーターの駆動音が低く響き、コーキの腹を掻き回しはじめる。
「あっ……!」
 甘く濡れた声を漏らしかけ、コーキは慌てて口を噤んだ。いくら気心の知れていた相手とは言え、そんな声を聞かせるわけにはいかなかった。
「朝倉くんと仲良くなれないなら、朝倉くんが帰るまでこうしてて。僕は仕事してくるから、何かあったら大声出して呼んでくれれば聞こえるし」
 遼はそう言って手足を縛めた鎖や首輪の強度を確認すると、コーキひとりを残して部屋を後にする。コーキはそれを呼び止める事もなく、過ぎ去る足音を見送った。
 リビングに戻り朝倉と同じ部屋にいるくらいなら、こうして不自由を強いられながらもひとりでいる方がずっとマシだ。
「う……ぁ……」
 抉る玩具に感じる場所を刺激され小さく呻く。勃起したペニスから先走りが溢れ出し、もどかしさに腰が揺れた。だが、いくら腰を揺らしたところで刺激が増すわけではない。
 遼の仕事が終わるまでの数時間、絶頂には決して届く事のない生ぬるい快感にひたすら耐えなければいけなかった。

 脳裏にちらつくのは過去の事だった。
 薄暗いステージ、眩く照らすライト、痺れるような音の中、張り上げた声は歓声を湧き起こした。感じた喜びを、怒りを、哀しみを、全ての熱情を朝倉のギターに乗せて歌い上げる。身体に刻まれるドラムのリズムが、唸るようなベースの輝きが、響き渡る歓声が、もう戻れない場所が恋しかった。戻りたくない場所が恋しかった。
 恋しいだなんて、思ってはいけないのに恋しかった。

 窓の外から太陽の光が失われ、部屋は暗闇に包まれた。その部屋には甘い吐息とモーター音だけが広がっている。後孔の感覚もなくなってきた頃、ようやく寝室の扉が開かれ遼は戻ってきた。
「朝倉くん、帰ったよ」
 中途半端な刺激をずっと与えられていたせいか、身体が怠く重い。シーツを通り越してマットレスの底まで沈み込んでいってしまいそうな感覚だった。
 遼はコーキの隣にぎしりとマットレスを軋ませて座ると、緩やかに勃起したコーキのペニスを指先でつつく。
「一度出してから、夕飯にしようか」
 燻った熱を解放する事が出来るのだ、と期待に跳ねたペニスを遼の指が掴んだ。
「んっ……あ、気持ちイイ……!」
 性器を擦られる快感に声をあげる。今までの数時間、散々焦らされてきたが、遼がそこをすぐ触ってくれるとは予想していなかった。焦げ付いた神経に流れる直截的な快感に身を捩り、ようやく見えた絶頂への快感を駆けのぼる。
「あっ、ああ……」
 扱かれたのは本当に数度だ。そもそも早漏な方ではなかったが、今日は条件が違う。昂った身体はほんの三こすり半程度で簡単に射精してしまう。ペニスから勢いよく飛び出た白濁は遼の指やシーツに飛び散った。
「たくさん出しちゃって、可愛い」
 遼は指についたコーキの精液を、赤く濡れた舌で舐めとりシーツに飛び散ったものはティッシュペーパーを使って片付ける。コーキの手足の拘束を解き、後孔に埋めていた玩具を抜き去った。
「夕飯、今日は洋食にしてみた。トマトコンソメスープとサラダと、メインはチキンソテーだよ。パンもあるし、パスタとかご飯も用意出来るけど、どうする?」
 そこでコーキは、今日は朝からまだ何も食べていない事に気付いた。近頃は空腹さえも感じないので食事がない事に辛いとは思わない。けれど、異様なまでの身体の重さは疲れだけではなく、食事を摂っていないせいなのかと思い至った。
「……スープだけでいいです」
 出来る事ならスープも食べたくはなかったが、食べなければいけないと理解していた。
「そう」
 遼は曇ったような声色で頷くと寝室から消える。ドアを締め切らなかったので、遼が食事の用意をしているのであろう事は物音で察せた。
 間もなく戻ってきた遼は、皿の並んだトレイを抱えていた。ベッドサイドのテーブルにトレイを置き、スープの入った器とスプーンをコーキに手渡した。
 どうやら遼もここで食事をするらしく、トレイの上にはスープ、サラダ、パン、チキンのそれぞれの皿が並んでいる。コーキは受け取った湯気のたつスープをスプーンで掬い、何度か息を吹きかけて温度を下げてから口へと運ぶ。
 赤めの橙色をしたトマトコンソメスープは、砂漠のように渇いた身体へ染み入るかのようだった。温かさが心地良く、舌に広がるうま味と香りが荒んだ心を癒していく。
「パン、一口くらい食べる?」
 遼はそうしてパンを一口分ちぎり、コーキの口元に寄せた。スープだけでは到底身体を維持する事が出来ない、そうはわかっていても固形物を口に入れる気にはなれなかった。
 首を左右に振ると、遼は僅かに眉を寄せたがそれ以上は何も言わず、ちぎったパンは自らの口へと運んだ。
 自分の身体が、自分の精神がどうなっているのか不思議だった。改善しようと思わないのは、改善する必要がないと思っているからだ。
 例えばこのまま死んでしまえるのなら、それは本望とさえ言える。もういない彼女を追う事が出来るなら、コーキにとって何よりの幸せだ。
 今までの人生を彼女のために生きてきた。彼女が好きで、彼女に振り向いてもらうために生きてきた。好きだった歌やバンドも、彼女がいるからこそ必死に上を目指し努力を積み重ねてきた事だった。
 その全てを失くした今は、この先の人生なんてどうでもよかった。
「コーキくんさ、今日朝倉くんも言ってたけど流石に痩せすぎだと思うよ」
 遼はサラダを口に運びながらそんな事を言った。空腹を感じない中、無理矢理流し込んでいるせいか、スープを口に運ぶコーキの手は止まってしまっている。
「でも、食べれないですし」
 食べ物を食べたくない、そして食べていないのだから、痩せてしまっても無理はない。もう覚ます必要のなくなったスープを器の中で弄びながら返事をした。スプーンでかき混ぜると渦を描くそれは、どこか別の世界に繋がる扉にも思えた。
「病院とか、行ってみる? 心療内科とかでいいのかな? ……無理にとは言わないけど、僕は行った方がいいと思うよ」
 誰かが自分の健康面を心配してくれるのは、本当に有難い事だ――。その自覚はあったが、コーキは返事をしなかった。病院には行きたくなかったからだ。
 彼女への想いは、コーキ自身だけのものだ。彼女への想いなのに、他の誰かに介入して欲しくなかった。
「……ごちそうさまです」
 まだ器に半分程残っているスープの容器を遼に返す。遼は何も言わずそれを受け取った。
「あの、遼さん。睡眠薬、ください」
 食事の後片付けをする遼に、縋るような視線を投げかけた。遼は首を傾げ、自らの腕に嵌めた腕時計を見る。
 寝室に時計は設置されていないが、時間の経過を考えればまだ二十一時にもなっていないであろう事はわかる。
「ちょっとはやくない?」
 顔をあげた遼は眉を顰めていたが、コーキは引きたくなかった。
「眠りたい気分なんです」
 睡眠とは、つまり逃げる事だ。現実から逃避し、何も考えずに済む夢の世界に浸る。眠っている時だけは何も心配せずに安らぐ事が出来る。どんな幸せな夢も、どんなに辛い夢も、起床と共に忘れる事の出来る幸せなひと時だ。
「……わかった」
 遼は頷くと、一旦寝室を後にした。すぐに戻ってきた遼はフィルムに包まれた薬とペットボトル入りのミネラルウォーターを持っている。
 コーキをベッドに横たわせると、その脇に座った。ミネラルウォーターを口に含むと、コーキの唇にフィルムから取り出した薬を押し込み口づける。
 遼の唾液ごと流し込まれるミネラルウォーターを薬と一緒に嚥下した。ついでのように舌を絡め、上顎を掠める舌に淫靡な色を感じる。
 けれど、唇はすぐに離れコーキを一人にした。
「おやすみ」
 遼はコーキの頭を軽く撫でると寝室の電気を消した。暗闇に包まれた部屋の中、強制的な睡眠はすぐに訪れた――。



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おなまえ


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