溺れそうな暗闇で、照らす光は眩しくて。 第九話


 その日、コーキはベッドの中、一人で目覚めた。ゆっくりと瞼を開く。カーテンは閉じられているがその隙間から太陽の光が漏れだしている。鋭い陽光はそれが朝陽などではない事を示していた。
 小さくため息を吐き上体を気怠く起こす。
 コーキは起き上がり、遼を求めてリビングを覗いた。マットレスはぎしりと歪に軋む。
 寝室の中にはたったひとりきりで、まるで世界の隅に取り残されてしまったかのようだった。
 このままもう一度眠りたい欲求にも駆られたが、やけに喉が渇いていて眠れそうにはない。横たわりたいと訴える身体に鞭を打ち床に足をおろす。裸の足裏に、少しざらついたフローリングの感触が心地良い。
 寝室の扉を開けリビングを覗くと、いつものようにカタカタとタイピング音が聞こえてきた。そして、今日はそれだけではない。
 部屋の音響機器を使用しているらしく、コーキも覚えのある曲が流れている。部屋の隅に音響機器が設置されていた事は知っていたが、実際に使用しているのを見るのはこれが初めてだった。
 愛を歌う男性の声に眉を顰め、遼のデスクの元へと向かう。
「ああ、起きた? おはよ」
 コーキの気配に気付いた遼は手を止めにこりと微笑む。
「……おはようございます」
 そう挨拶をしてみたものの、時刻はもう昼に近く、おはようという挨拶は相応しくない気がした。
 どうやって手配したのか、遼は約束通りコーキに睡眠薬を用意していた。
 指先に載ってしまう小さな欠片一つで、コーキは安眠を取り戻した。
 強制的な眠りに意識を奪われ、何かを考える余裕もなく夢の世界へと誘われる。
 睡眠薬を服用し迎えた朝――を過ぎた昼は今日で三日目だった。
「起きれなくてすみません」
 夜に眠れるのはいいが、薬が効きすぎているせいか朝に起きれなくなってしまった。
 以前は遼が起きると同時に目を覚ましていたのに、自身の失態を恥じてコーキはぺこりと頭を下げる。
「ん? いーよ、別に。コーキくんはペットなんだから、いつ寝てもいつ起きてもいいんだよ?」
 肩を竦め遼の言葉を流す。
 近頃ようやく解ってきた事だが、遼は機嫌の良い時と悪い時で意見が変わってしまうようだ。
 今は寝起きの時間は問わない、とは言ったが、機嫌が悪くなればその意見もころりと変わってしまう事だろう。
 部屋に流れる音楽が次の曲へと移る。
 歌うのは先程と同じ男性で、今度は友情を訴える歌だった。
 低音を中心に構成されたバンドサウンドは、この国で生きていれば誰でも耳にした事のある有名ロックバンドのものだ。
 男性五人組のそのバンドは数年前にデビューして以来数々のヒットソングを世に生み出している。
「……」
 コーキは無意識に音響機器のある部屋の隅を睨んだ。
 昔、何度も聞いた曲が耳へと入り込み記憶を蘇らせる。
「……コーキくん、どうかした?」
 そんなコーキの視線の行く末に気付いた遼は不思議そうに首を傾げた。
 何もないです、と首を振りかけて、けれど耳に入る曲の煩さを思い開きかけた口を閉じる。
「あの、音楽……止めてもいいですか?」
 遼に何かを意見するのは言い辛いものがある。意見を求めておきながら、提言するタイミングを間違えれば生意気だと罵られるのだ。
 だから、コーキは出来る限り遼に意見しないようにしていた。
 だが、これに限っては話が別だった。
 例え遼の機嫌を損ねてしまったとしても、音楽がない環境を選べるならそうしたい。
「止めるのは構わないけど……嫌いだった?」
 遼は自身のデスクの上に並べていたリモコンを手に取り、音響機器の電源を落とす。
 流れていた曲はぷつりと途切れ、部屋には静寂が戻った。
「……音楽は、あまり好きじゃないんです」
 コーキは言葉を選び、そう告げる。視線は空を彷徨い、あちらこちらを見回しては揺れた。
 好きではない。
 嫌な事を思い出してしまうから、嫌いになった。
「……そう」
 遼は短く返事をすると、それ以上何も言う事はなかった。
 機嫌を損ねる事もなく、理由を問い詰められなかった事も意外で、コーキはほっと胸をなで下ろす。
「鍋の中にスープ作ってあるから、気が向いたら飲むといいよ」
 キッチンを視線で指示した遼に、コーキは曖昧に頷いてみせる。
 粥やうどんを試してみたが、一番食べやすいものはスープだった。
 それが判ってからというもの、遼は毎日時間をかけて具材を煮込みコーキのためにスープを作っている。
 そのスープは確かに美味で、食欲のないコーキの喉にも通りやすい。
「……ありがとうございます」
 キッチンを覗いてみれば、スープだけでなくコーキが食べてもいいように、とサンドイッチやサラダの軽食も用意されていた。
 気持ちは有難かったが、今のコーキにはスープを飲むだけで精一杯だった。
 食欲は日に日に落ちていき、今は一杯のスープを飲むのにも時間をかけなければいけない。
 目立った身体の不調はやはりなく、強いて言うならば目に見えて体重が減ってきている事だろうか。
 だが、それは食べていないのだから当たり前の話だ。
 一日に摂る食事はスープを一杯か二杯、それに用意された軽食を一口齧る程度だった。
 栄養は明らかに足りていないが、倦怠感などもない。
 再開されたタイピング音の中、温めたスープをゆっくりと啜った。



 その昔、コーキがまだうまく笑えていた頃、音楽が好きだった。幼い頃からピアノをしていたせいか、物心つく頃には空を舞う音の流れがなければ生きていけない程に好きだった。
 中学生にあがる頃からバンドサウンドの魅力に取りつかれ、与えられた小遣いを貯めて安物のギターを買った。
 夜毎弦を弾いては歌い、身体から湧き上がる音を空気にのせた。
 やがて出会った朝倉も同じ趣味を持つ事が発覚し、二人はバンドを結成した。
 今から考えてみればままごとのようなクオリティで、けれど、それでも夢中になった。
 趣味と学業を両立させ、出会いと別れを繰り返しながら実力を築きあげた。
 コーキは歌う事が好きだった。
 歌で誰かに想いを伝える事が、歌を通して誰かからの想いを受け取る事が、心の底から大好きだった。
 中学生の頃に結成したバンドは、紆余曲折を経ていつしかワンマンライブが行える程の魅力を備えるようになっていた。
 けれど、今はもう歌えない。
 歌えば、いつだって支えてくれていた彼女の事を思い出してしまうからだ。
 そして、コーキの作る曲はいつだって彼女に捧げられていた。
 捧げたい相手に、もう歌声は届かない。
 だから歌いたくなかった。
 眩いライトに焦がされ歌い上げる刹那のひととき、ステージに立ち歓声の中奏でる音楽。鼓動のようなドラム、血潮のようなベース、骨を築くギター、そして歌は肉となる。
 自らがステージに立っている姿を、目を閉じれば今もまだ思い出せる。
 二本の足で舞台を蹴り、衝動を音にぶつける。
 その快感をまたこの手にしたいと望むと同時に――彼女がいなくなった今、その快感を得る事に罪悪感を覚えてしまうのだ。
 歌おうと口を開くたび、声は震え涙が溢れる。歌う事を諦め、音楽を嫌いになろうとしていた。
 コーキはソファの上で身体を丸め、自らの足を抱え込む。膝に額をくっつけて、潤んでしまった視界を誤魔化す。
 過去から逃げるためにペットになったはずなのに、結局は過去に捕らえられ心を乱されてしまう。
 何も出来ない自分の無力さを実感し深い暗闇のような絶望が心を包んだ。
 リズムよく部屋に響き続けていたタイピング音が止まり、遼は椅子を立った。
 近付く足音に気付きながらも、コーキは顔をあげる事が出来なかった。
「コーキくん」
 呼びかけられて喉がひくつく。
 遼はソファを回り込み、コーキの隣へと座った。
 そっと抱き寄せられながら髪を撫でられ、コーキは身体をその胸へと預ける。
 遼の腕の中は心地良く、安心できる。
 けれど、そうして安堵の吐息を漏らす度に罪悪感は降り積もっていく。
 彼女だけを愛すと決めていたはずだ。コーキの全ては彼女のもので、コーキは彼女のために生きていた。彼女を守ると誓い、幸せにすると約束した。
 彼女を守る事は出来ず、幸せにも出来なかった。
 行き場を失った想いは心に茨となって残る。
 遼の腕の中で過ごす自分に嫌悪感がった。
 彼女は死んで、自分だけが生き続けている。その現実を認めたくなかった。
 遼は何も言わず、コーキの髪を撫で続けている。
 普段は我儘で理不尽な要求ばかりをしてくる遼だったが、こういう時だけは察しが良い。
 コーキのして欲しい事と、して欲しくない事を簡単に読んでしまう。
「遼さん……」
 コーキは遼の胸に縋るように服を掴んだ。遼という存在だけが、今を打開できる光のようにも思えていた。
「ん?」
 頭を撫で続けながらコーキの言葉に聞き耳を立てる。その優しさがぎりぎりと胸を締め付けた。
「……抱いて、ください。全部忘れたいんです」
 快感に溺れているうちは何も考えずに済む。
 遼と貪る愉悦は毒のように甘く、身体と精神を侵していく。蝕まれた心は端から錆びて、朽ちていく。



「んっ……ぁ、遼さんっ……!」
 濡れた吐息を惜しげもなく零す。そうすると遼は楽しげに笑うのだから、その顔を見たくて甘く啼く。
「気持ちイ……! もっと、ちょうだい!」
 正常位で遼を受け入れ、自らのペニスを扱いた。
「っ……!」
 内部を締め付け男根を感じると、その粘膜の熱さに遼が微かに呻いた。
 ペニスから漏れ出した先走りが汗に混じり肌を汚す。
 愉悦の沼に足を突っ込み、ずぶずぶと頭のてっぺんまで沈んでいくようだ。
「あぁっ……!」
 男根を根元まで穿たれ、嬌声をあげる。
 身体を奥深くまで犯される快感は、コーキから思考を奪っていく。
「コーキくんが幸せになれるなら、なんだってしてあげる。可愛いペットを幸せに出来るのは飼い主である僕だけなんだよ」
 喘ぐコーキの肩を抑えつけて腰を打ち付ける遼は、熱に浮かされたようにそんな事を言った。
 快楽に痺れた頭で、その意味を考える。
 足を開き愉悦に溺れた身体は、全ての忘却を望んでいた。
 首元に嵌められた革製の首輪はいつだって主張を忘れず、コーキがペットである事を教えてくれる。
「遼、さん……!」
 そして、その首輪は時に重くコーキの首を絞めつけた。
 コーキは遼の手を左右とも取り、ゆっくりと自分首へ誘導する。
 首輪の上から、遼の指が巻き付くように手を重ね、遼の目をじっと見詰めた。
「なら、俺を殺してください……!殺して、全部忘れさせてください」
 溢れた涙が快楽に依るものなのか、それとも別の何かなのかはコーキにもわからなかった。
 遼は眉間に皺を寄せ視線を惑わせる。
 このまま死んでしまう事が出来ればどれ程幸せなのだろうか。彼女の後を追いたいとずっと思っていたのに、自ら命を絶つ事は出来なかった。
 遺される哀しみはコーキ自身がよく知っている。それに、死ぬ事が怖かった。死後、自分のいない世界を想像するだけで足元が揺れた。
 何度も死を選ぼうとして選べなかった。その死を、遼に託す。
 今なら死んでしまっても構わない。
 遼の手で殺されるなら、死ぬ事が褒美のようにも思えた。
 死ねば、この辛い現実から逃れられる。
 命なんて、煩わしい枷だった。
「遼さん……!」
 いつまでも力の入らない遼の指先に、死を諦めたその直後――。
「んぐぁっ……!」
 遼は渾身の力でコーキの首を締め上げた。親指が柔らかな皮膚に食い込み、気道を抑え込む。
 いくら呼吸をしようと口を開けても酸素を取り入れられない苦しさに、コーキは思い切り背を反らした。
 油断をすれば抵抗してしまいそうになり、コーキは遼の腕から指を離し、シーツをかき乱して耐える。
「っ……!」
 だが、その間も遼の腰の律動は続いていた。
「ああ、よく締まってる。気持ちイイよ」
 うっとりとした口調で粘膜を突き上げる遼は、コーキの意識が飛んでしまいそうになったその瞬間に指を離す。
「はっ……! はぁっ……! ぁっ……! うぁっ……!」
 あんなにも死にたかったはずなのに、指が離れれば酸素を求めて呼吸を繰り返してしまう。
 頭の中が焼き切れるように熱く、遼の声がやけに大きく聞こえる。
「もう一回」
 呼吸が落ち着くよりも前に、再び指が喉を締め上げた。
「んっ……!」
 酸素を遮断され、世界の音が消える。
 結合部を捏ねる水音だけが体内から脳へとあがってくる。
 あと少しで死ねる。
 望んだ死はそこにあって、ほんの少し手を伸ばせば届く。
「コーキくん、かわいー」
 それなのに、遼は指を離してしまうのだ。
「は、るか、さんっ……!」
 涙と涎を溢れさせ、胸を大きく上下させて息を吸い込むコーキは、掠れた声で飼い主の名を呼んだ。
 与えられる愉悦にペニスが震えて跳ねる。
 遼はそんなコーキの顎を捉えて顔を寄せ、じっと視線を合わせた。
「キミの事は殺さない。でも、全部忘れさせてあげる。僕のコトしか考えられないようにしてあげる。僕の傍でしか生きられないようにしてあげる」
 真っ直ぐな瞳がコーキの視界から脳を抉るかのようだった。
 言葉は杭となり、コーキの心を打ちとめる。
 熱と愉悦と酸欠に侵された頭で、コーキは何度も頷いた。



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