溺れそうな暗闇で、照らす光は眩しくて。 第七話


 コーキと遼は朝起きるとシャワーを浴び、部屋着を着替える事にしている。
 シャワーを浴びるのは昨夜に睦みあい汗をはじめとした体液で汚れた身体を清めるためだ。
 そして、着替える衣服は全て遼が選んでいる。コーキには衣服を選択する権利も、渡された衣服を拒む権利も与えられていない。
 その日手渡された服は、いつもとは少し趣向が違った。
「……珍しい、ですね」
 普段は動物モチーフのフードに耳がついたパーカーや足が剥き出しになる短パン、時には女性もののワンピースやスカートだってある。
 けれど、今日はラフなベージュのスラックスに白いワイシャツだった。遼の普段着と同じようなテイストのそれは、コーキがここに住み始めてから初めて渡される類の服だ。
「今日はお客さん来るからね。……お客さん、っていうかアルバイト、かな」
 遼はなんでもない事のように告げ、仕事の続きを始める。キーボードをリズムよく叩くその音にも、もう随分と慣れて今では心地良くも感じられる。
「アルバイト……? って、何するんですか……?」
 この家に住み始めてから、誰か他の人間が来た事はない。それに、アルバイトとは一体何をするのか見当もつかなかった。
「ん? ああ、近頃忙しくてね、色々手が回ってないから書類整理してもらうのと、あとついでに家事も少し頼もうかなーって」
 言われてみれば近頃の遼は、普段より長くパソコンに向かっている。食事は欠かす事なく作っているし睡眠時間も変わらない。が、その分掃除の時間を削っているようだ。
「知人の知人? くらいの紹介なんだけど、日給一万円で一日働いてくれるって」
 何時間の稼働なのかにも依るが日給一万円はアルバイトにしては随分と割りの良い仕事なのではないだろうか。
 手伝う事はしなくていい、というのは同居を始めた時に厳命された。
 だからコーキは忙しそうだ、とは思いつつも手伝いを申し出なかった。
 しかし、アルバイトを雇う程に時間が回っていないのなら話は別だ。
 今はペットという枠に収まり一日ごろごろして過ごしているが、何も無能ではない。
 この生活を始める前までは普通に学生として生活をし、それなりの対人関係を築き、学生程度のアルバイトはこなしていた。
「それくらいなら俺だって……」
 むくれながら呟いてみるが、その呟きを聞き逃さなかった遼は一際力強くキーボードを打ってから手を止める。
「僕のペットは僕が養うんだからアルバイトの必要ないでしょ」
 じろり、と睨まれたが、コーキの言いたい事はそうではない。
 ペットであっても、何もしなくていい、という現状が気に食わなかっただけで、金が欲しいと言ったつもりはない。
「そういう事じゃなくて」
 更に言葉を紡ごうとするが、遼の視線は鋭く続きを封じられる。
 これがアルバイトを決定する前、というならばまだ交渉の余地はあったのだろうが、当日ともなればもうどうしようもない。
 アルバイトのために時間を空けている遼の知人の知人とやらも迷惑をかけてしまう。
「……すみません」
 コーキは大人しく謝罪の言葉を口にし、着替えをする事にした。
 キーボードを打つ音は再開されたが、先ほどよりリズムが乱れているのが怖かった。
 ペットという立場は楽ではあるが、融通のきかない立場でもあった。何も考えずにいられればいいが、自らの意見を通す事はまず不可能だ。
 諦めにも似た溜息を吐き、与えられた衣服を探る。
 けれど、目的のものが見当たらず首を傾げた。
 いつもなら当然のように用意はされていないが、今日は普通の服なのだからあると思った。
 答えはなんとなくわかってはいたが、念のため遼に声を掛ける。
「あの、下着は……?」
 もしかしたら、遼が用意をし忘れただけなのかもしれない。
「見えないんだからいらないでしょ」
 が、即答でその夢は断ち切られた。
 予想はしていたし、その可能性を考えていなかったわけではない。
 しかし、このままでも外に出れるような服装なのに下着をつけられないというのは違和感しかなかった。
「…………はい」
 アルバイトの一件で既に機嫌を損ねてしまっているのだから、これ以上の反論を試みるのは危険だった。
 それに、反論をしたところで無駄だという事は今までの生活で十分に理解している。
 下着を着ないまま服に袖を通し、いつものように手持ち無沙汰な時間を潰しながら客人を待つ事にした。



 それから一時間程経った頃、インターフォンが鳴った。
 コーキは玄関に出る事を許されていないので、対応は必然的に遼が行う事になる。
 ソファに寝転んでいたが、ゆるりと身体を起こし、手櫛で髪を整え初対面の相手に備えた。
 玄関の方から遼の声と、もう一人誰か男の声がする。やがて廊下を歩く足音が加わり、コーキの緊張が増した。
 玄関から繋がる廊下とリビングを隔てる扉が開かれ、対面する。
「……」
 遼の後に続いて部屋に入ってきた男の顔を見て、コーキは浮かべた笑顔を引き攣らせた。
 そして、相手も同じように驚いているようで、表情にこそ出てはいないが互いに目を合わせたまま固まっていた。
 時間にしてみれば一秒にも満たない間だっただろうか。それでも、互いを認識するのには十分な時間だった。
 遼は二人の反応に気が付かなかったようで、にこにこと笑顔を浮かべながら二人の間に立つ。
「こちら、今日アルバイトをお願いした朝倉慎之助くん」
 対面した男――朝倉を紹介した遼は、今度はコーキを指し示した。
「こっちはコーキくん。僕のペットだよ」
 遼より少し慎重が高く、線は細いがそれなりの筋肉を身に纏っている。背中にギターのハードケースを背負い、少し長めの髪をうなじで束ねた朝倉という男を、誰に紹介される間でもなくよく知っていた。
 朝倉は遼の紹介を聞いて怪訝に眉を顰めたが、コーキはそれに被せるようにして声をあげた。
「よ、……よろしく」
 はじめまして、と言うために準備をしていたはずだった。
 まさかこんなところで知り合いに出会うなんて、それもまさか朝倉に出会うだなんて夢にも思っていなかった。
 戸惑っているのはコーキだけではなく朝倉も同じようだ。戸惑いを覆い隠すように咳払いをし、口を開く。
「……久しぶり」
 幼馴染の二人は、そうして再会を果たした。



 コーキと朝倉慎之助の出会いは中学一年生の頃だった。
 私立のその学校は学力でクラス分けが決まる。努力せずとも勉強の出来る二人は、中でも一番学力があるとされるクラスに振り分けられた。
 初めて会ったその日から、意気投合するまではそう時間もかからなかった。
 誰に対しても分け隔てせずに常に明るく接する事が出来る少しお調子者のコーキと、いつだって冷静で落ち着いた行動の出来る朝倉は、行動こそ違うが思考回路はよく似ていた。
 それになにより二人には共通の趣味があった。
 学校でも放課後でも休日でも共に行動し友情を深めたのだ。
 けれど、その友情もコーキは過去と共に切り捨てた。
 過去があれば思い出してしまう。朝倉がいれば思い出してしまう。
 身も心も捧げた彼女がもうこの世にはいない事を思い出してしまうから、全てを切り捨てて逃げずにはいられなかった。
 コーキが遼のペットになってから、まだ二か月も経っていないが、それ程長く連絡を取らなかったのは出会ってから初めての事だった。



「二人は、知り合い……?」
 遼はあからさまに険のある声を出し眉間に皺を寄せる。
 遼の機嫌が悪くなればその余波はコーキへと辿り着く。コーキは慌てて姿勢をただし笑顔を作ってみせた。
「昔のクラスメイトですよ」
 二人の関係性を説明するには不十分だが、決して嘘はついていない。
 朝倉に目配せをするが、朝倉はコーキの説明に言葉を付け加える気はないようで、コーキは胸をなでおろした。
「そう……、ならいいんだけど。朝倉くん、今日の仕事の説明するからこっち来て」
 言葉ではそう言いつつも遼の機嫌がよくなった気配はない。
 遼はコーキのいるソファからパソコンの置いてある仕事机に移動した。
「はい」
 短く返事をしながら遼の背を追う朝倉は、歩みを進めるその瞬間にコーキと視線を交わせる。
 何かを言いたいのであろう事はコーキにもよくわかったが、朝倉に話せる事は何もない。
 視線を床に向け二人を見送った。
 遼はパソコンの隣に散らばる紙の束を纏めて朝倉に手渡す。
「これ、右上にノンブル打ってあるから順番に重ねてくれる? それが終わったらこっちの箱の中にあるやつ全部シュレッダーにかけて」
 朝倉に仕事を説明する遼の声を、コーキは手元の本を眺めながら聞いた。
 遼がコーキに対して仕事の話をする事はない。パソコンに向かって仕事らしきものをしている姿はいつも見ているが、それだってモニターを覗き込んだ事はないのだから何をしているのか知らない。実際に仕事らしい事を話している遼の姿を知れるのは新鮮だった。
 そして、それと同時に湧き上がるもやもやは、嫉妬にも似た何かだ。
 コーキは確かにペットという立場だ。ペットになった犬や猫は仕事をしない愛玩動物だ。
 衣食住全ての面倒を飼い主が見る事で、ペットは野生を忘れて日々を怠惰に過ごす。
 だが、それは犬や猫の話である。コーキはれっきとした人間で、その気になればなんだってできるのだ。
 ペットとして大切に扱われているのだという事はわかるが、もう少しあてにしてもらいたい、と思わないでもない。
「…………」
 やがて部屋にはキーボードを打つ遼のタイピング音と、書類整理を始めた朝倉の紙を触る音だけが響き始める。
 その音たちを聞きながら、コーキはソファへ身体を横たわらせた。仰向けになって本を捲り、文章を読む。
 部屋の隅に置かれた朝倉のギターケースを見る。嫌な事を思い出しそうになって目を逸らした。
 遼以外の人間もいる。それもよく見知った朝倉だ。
 遼のペットだというコーキの事を、朝倉がどう解釈しているのか気になった。
 朝倉を見ずに気配だけで様子を探る。本の内容は頭の中に少しも入ってこなかった。
 時計の針は巡り正午を少し回ったところで、遼は席を立つ。
 朝倉がいてもいつもと同じリズムなのであれば、昼食の用意だろう。
 コーキの予想通りキッチンへ向かった遼は、手早く調理を開始し、ほんの十五分程で食事の支度を終えた。
 仕事が忙しくない時は一時間程の手間をかける日もある事を考えれば、今抱えている仕事はそれなりに大変なのだろう。
 それでも食事を抜いたり既製品などに頼らないあたり、遼の拘りが窺える。
 料理をダイニングテーブルに並べた遼は、コーキと朝倉に声をかけた。
「昼ご飯出来たからこっちおいで。朝倉くんも休憩にしよっか」
 コーキはのろのろと身体を起こしダイニングテーブルへと向かい、朝倉もその後を追う。
「すみません、昼食まで有難う御座います」
 ぺこり、と頭だけを下げた朝倉は、遼に促されて四人掛けのダイニングテーブルへと腰掛ける。
「いいえ、こっちこそ手伝ってもらっちゃってありがとうね」
 その席は遼の席の向かい側で、普段であればコーキが座っていた席だ。
 コーキの席は遼の隣になったようで、テーブルの上には四人分のセッティングがされてあった。
 昼食のメニューはサンドイッチとスープ、ミニサラダで、全てワンプレーとに載せられていた。
 どちらかと言えば街中にある、雰囲気を楽しむような類のカフェで出てきそうなメニューだった。
「いただきます」
 朝倉はそう言って手を合わせてからサンドイッチを手に取る。チキンと卵の入ったサンドイッチだった。
「口に合えばいいんだけど」
 皿の上には各自、手のひらサイズのものが四切れずつ載っている。
 遼と朝倉は談笑しながら昼食が始まった。コーキは二人の話をただ聞くだけで口を挟む事も、相槌を入れる事もない。
 二人が会話する光景を、まるで映画を眺めるかのように見て過ごした。
「あれ、コーキくんまだお腹空いてなかった? でも今日は朝ご飯もほとんど食べてないよね?」
 遼はコーキの皿を覗き込み、不審げに声をあげる。
 遼と朝倉が四切れをあっという間に食べ終えた頃、コーキはまだ一切れも食べきれていなかった。
 手に持ったサンドイッチは三口目を齧ったところで、飲み込めないまま咀嚼を続けている。
「なんか、食欲なくて」
 目が合った遼の瞳は不安の色を浮かべていた。
 どこかが痛いわけでもなく、身体に目立った不調はない。
 ただ食べれない、というだけだ。
 コーキは誤魔化すような笑みを浮かべた。
「食欲ないなら無理して食べない方がいいと思うよ」
 遼は肩を竦め、コーキの笑みを受け止めそんな事を言った。
 コーキは自身の齧りかけのサンドイッチを見て、何度も咀嚼した口腔内の食物を無理矢理喉へ流す。
 折角作ってもらたのだから、食べなければもったいないとは思うのだが、食事が進まない。口に含む事は出来ても飲み込む事に抵抗を感じてしまう。
 一体自身の身に何が起きているのか――コーキが不安を抱いたその時、朝倉が口を開いた。
「いや、ダメだろ。無理してでも食えよ。広貴(こうき)、前より痩せてるし顔色も悪くなってる。それに前はもっと食ってたんだし、こんだけの量が食えないってどっかおかしいんじゃねーの?」
 遼とコーキの会話に割り込むようにして口を挟む。遼の眉が顰められた事に気付いたのはコーキだけだった。
「……でも、食えないし」
 横顔に遼の視線が突き刺さるのを感じながら、朝倉に言葉を向ける。
「だから、無理矢理食っとけって。何も食わないままでいたら今は何もなくても、後から体調崩すから」
 朝倉が言う事もよくわかるのだが、喉を通らないのだから無理があった。
「無理矢理食ったら吐きそう。それに遼さんは食わなくていいって」
 遼は困ったように二人に視線を言ったり来たりさせる。
 朝倉はそんな遼をほんの一瞬だけ睨み付け――コーキに視線を移す。
「松風さんがどう言おうとお前の身体だろ」
 松風さん、と聞いてそれが遼の事であると察する。遼の苗字を聞いたのはこれが始めてだった。
「俺の身体だから、俺が食いたくないって思ってるんだから食わなくていいだろ?」
 食べられないものは食べられない、そう言っているのに食べろと言い続ける朝倉に苛立ちを覚え、コーキの語気が荒くなる。
「食わなくていいわけないって言ってんの。聞き分けの悪いやつだな」
 そして、それに呼応するかのように朝倉の語気も荒くなる。そうなってしまえばコーキの苛立ちは更に募るばかりだ。
「聞き分け悪いってなんだよ! 食いたくないとかじゃなくて食えないって言ってんの!」
 勢いに任せて声を荒げると
「食えないのはわかってるけど、無理してでも食えって!」
 同じ分だけ返ってくる。
 だが、朝倉になんと言われようと食えないものは食えないのだ。
「食うか食わないかは俺が決める! お前に指図される事じゃない!」
 バン、と机を手のひらで叩きつけ怒鳴りあげる。
 朝倉が怯んだように見えたのはほんの僅かな時間だけで、すぐにまたコーキと同じように声を張り上げた。
「指図って……俺はお前の事を心配してやってるんだろ!?」
「いつ誰が心配してくれなんて頼んだよ!? 勝手に心配しておいてそんな恩着せがましい言い方するわけ!?」
 ピリピリと緊迫した空気が流れ、睨みあった二人の間に火花が飛び散り糸が張り詰める。
「ま……まぁ、二人とも落ち着いて」
 けれど、その糸は遼によって断ち切られる。
 わざとらしい程の笑みを浮かべながら、傍観者だった遼が間に割って入った事で客人であった朝倉は我を取り戻した。
 もうほとんど椅子から浮かしかけていた腰を落とし、肩から力を抜く。
「……すみません」
 遼に頭を下げると、遼は「いいんだよ」と微笑んで見せた。
「コーキくんは汚い言葉遣いしないの」
 そしてコーキにはやや厳しい飼い主の口調で告げた。
「……はい」
 そこまで汚い言葉遣いをした覚えはないのだが、確かに遼に比べれば汚い自覚のあったコーキはぷい、と朝倉から目を逸らし膨れっ面のまま頷く。
 三人の間に気まずい雰囲気が漂う中、朝倉は迷ったように視線を彷徨わせてから、コーキに向けて口を開いた。先ほどまでとは違い、やや棘はあるが落ち着いた口調だった。
「っていうかさぁ、広貴がペットってなに? どういう事? 突然姿消したと思ったら、お前何やってんの?」
 コーキは財布と携帯電話だけを手に、誰にも何も告げず家を飛び出した。
 あてがあったわけではなく、勢いのまま、全てを忘れたくて飛び込んだバーで遼に拾われた。
「……シンには関係ない」
 その経緯を、今はまだ説明する気はなかった。
 俯いて顔を隠す。
 降り注ぐ朝倉からの視線が痛い。
「俺だけじゃなくて、みんな心配してる」
 心配をかけている自覚はあった。心配されているのだろうな、と予想はしていた。
 けれど、全てを忘れるにはそうするしか手段がなかった。
 全てを捨てなければ、自分がどうにかなってしまいそうだった。
「……」
 答えられる事は何もなく、自分の齧ったサンドイッチを見詰める。
 空腹感は感じているが、口に含むと胃がせりあがってくるような気分になってしまい、スムーズに食事を進める事が出来ない。
「まあ、でも生きててよかった」
 何も答えないコーキに向けて、朝倉はほっとしたような笑みを見せる。
 生きている。
 まだ、生きていた。
 遼に拾われなければ、今頃死を選択していても不思議ではない。
 今だって――遼と一緒に生活をしながらだって、死を選びたくなる事がある。
 かと言って、積極的に死にたい、と思うわけではない。
 夜、眠りについて、このまま目を覚まさなければいい、と願い、望むだけだ。
「……」
 けれど朝は必ずやって来て、毎日が始まる。
 コーキは惰性でその日を過ごし、また夜が来れば死を望むのだ。
「紗耶香さんが亡くなって急にいなくなったから、どこかで死んでるんじゃないかって思ってた」
 ギリリ、と心が痛む。
 紗耶香は、コーキが愛した最愛の彼女は、もういない。
 いないから、逃げてきた。
 全てを、現実を忘れるために逃げてきた。
 思い出したくない過去を、想像したくない未来を捨ててきた。
「…………」
 捨てる事に抵抗はなかった。
 それなのに、朝倉を目の前にして泣きたい気分になってしまうのは何故だろうか。
 コーキには何もわからなかった。
 答えのないコーキの持つサンドイッチを指さすと朝倉は言った。
「とりあえず、その一切れ、あと一口で食えるんだし食っとけよ」
 あと一口、たった一口。
 それが、今のコーキには巨大な壁に思える。
 食べなければいけない事はよくわかっているが、食べられる気がしない。
 それでも、そのひと口を食べようと決意する事が出来たのは何故だろうか。
「……ああ」
 先ほどまではあんなにも声を荒げて拒んでいたはずなのに、コーキは短く返事をして最後の一口を口に押し込んだ。



 昼食を終えた遼と朝倉は再び仕事へ戻り、コーキは今にも逆流しそうな胃液をどうにか抑え込みながら再びソファで本を読む。
 集中力が霧散してしまい、やはり本の内容は頭に入ってこなかった。
 そうして時間を潰しているうちにも時間は進み続け、太陽が地平線の向こうに沈んだ頃、朝倉は帰り支度を始めた。
「今日は色々手伝ってもらってありがと」
 コートを着込み鞄を持つ朝倉に、遼はそう声をかけた。
 しばらく外気に接していなかったのでわからなかったが、コーキの知らないうちに冬と呼ばれる季節に差し掛かろうとしているようだ。
「いえ、アルバイト代、頂いているんで」
 朝倉の着ている服はコーキにも見覚えのある服だ。
 中学生の頃から、大学生になり二十歳を超えてもほとんど毎日のように顔を合わせていた。
 互いの事で知らない事はないと言っても過言ではない。
「それじゃあ、また来週もよろしく。お疲れさま」
「お疲れさまです」
 それなのに、今は他人のように遠かった。
――実際、ただの他人なのだから当たり前の話だ。
 リビングを出る朝倉の背中を、コーキは声も掛けず視線だけで見送った。



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