溺れそうな暗闇で、照らす光は眩しくて。 第一話


 自分の芯を失ってしまったかのような、そんな感覚だった。今まで保つ事のできていた自分が、全て濁流に飲まれて消えていく。二十年程の人生で築き上げた自分は、誰にも譲れない『自分自身』だったはずだ。
 それなのに、今はもういない。どこにもいない。誰も知らない。自分が誰だったのか、何のために生きているのか、これから何をして生きていけばいいのかさえわからない。いっそ記憶を失くしてしまいたい、死んでしまいたい、そう思ったところで簡単にできないのだから不思議なものだ。
 落ち着いたジャズミュージックの流れているこのバーに、コーキは今日初めて足を踏み入れた。一枚板で出来た木製のカウンターは、寄り添うような温かみがあって好みだった。カウンターの上でグラスを弄び、中に入れられた氷を転がす。カランカラン、と冷たい音が響いて耳に残った。
 別に酒を飲みたかったわけではないけれど、誰も知らないところに来たかった。誰か知り合いがいれば、必ず声をかけられてしまうからだ。今は――今だけは、これからも、一人であり続けたかった。誰かと騒ぐ気にはなれない。今、誰かと一緒に行動したとしても楽しい気分になれない事はわかりきっている。心に浮かぶ空虚は絶望そのもので、コーキの感情をほとんど全て吸い取ってしまった。
 喉に染みるアルコールを味わっていると、男が一人隣へと座った。やけに視線が刺さっているような気がして、それでも無視を続ける。声を掛けてこない事から察するに、知人ではないようだ。琥珀色の液体が揺れるグラスを見詰め、そして、視線を感じる。男の視線は遠慮のないもので、コーキは小さなため息を吐いた。
 照明は絞られているので、誰かの顔を判別するにはその目の前まで行って目を凝らさなければいけない。グラスから視線を外し、男の方へ首をまわす。予想していた通り、男はコーキの事をじっと見詰めていた。柔和そう、とはこういう事を言うのだろう。その緩やかな笑みからは優しさが滲みでているかのようだ。年は三十路を少し過ぎた頃だろうか。顔は若く見えているが雰囲気は落ち着いていて、それなりに経験した月日を感じさせる。
「キミ、一人? 一緒に飲んでもいい?」
 一人になりたくてここに来た。何も言わずに首を左右に振る。しかし、男は席から離れる様子はない。ボックス席に数組の客が座ってはいるが、カウンター席には誰もいない。空いているのだからもっと別の席へ座ればいいのに、と、そんな事を思いながら睨みつけたものの、相手が意に介する風はなかった。
「何の用」
 短く、あえて突き放すような冷たい口調でそう言った。わざわざ隣に来たのだから、何か用があっての事だと思ったからだ。
「ん? これと言って用事はないけど。キミの顔が可愛いなーと思って」
 けれど、男はそんな事を言って、酒を喉に流し込んだ。琥珀色の液体はブランデーか何かなのだろうか。コーキは、自身の容姿が人並み以上に整っている自覚があった。異性同性問わず容姿目当てで近付いてきた人間は何人もいた。だが、顔が可愛いから近付いてきた、とそう素直口に出した人間は今まで数える程しかいない。
 『変な人』
 それが、コーキが抱いたこの男への第一印象だった。
「ねぇ、キミはこの後どうするの?」
 男はコーキに身を寄せるようにして、声を潜めて言う。この後、とはバーを出てからの事を指しているのだろうか。この後の予定は特に決めていなかった。この後も、明日も、明後日も、しばらく予定はない。あった予定は今まで築いた過去や自分と一緒に、全て投げ捨てて家を出てきた。
「この後は……」
 正直に『ない』と言っていいものなのかどうか迷って、言葉を濁す。男が『この後』に何を求めているか計りかねたからだ。
「暇だったら一緒にどうかな、って思ったんだけど」
 男は空になったコップを見せつけるようにしながら、更に声を潜めて言う。妖しげに歪められた唇に引き込まれてしまうような錯覚を感じた。言葉にこそ出ていないが、そこに含まれているニュアンスくらいは感じ取れる。醸し出される色香を感じ取れない程、子供ではない。よく確認もせずに適当に入ったバーだったが、この店は一夜の相手を求めるようなそれだったのだろうか。
 それにしても相手は男で、コーキも男だ。男同士でのセックスに抵抗はない。が、興味もなかった。
「ホテル代とか、全部奢るし、どう?」
 重ねて言うが、コーキは男同士のセックスに興味があったわけではない。それなのになぜ――首を縦に振ってしまったのかと言えば、それは恐らく自暴自棄になっていたからだろう。全てを失くして、自分をも見失って、この先どこへ行けばいいのかわからなかった。明日も、明後日も、どこに行っても、何をしていても、失くしたものは戻らない。もしも失くしたものが返ってくるのだとしたら、コーキはなんでもできた。
 しかし、失くしたものは返らない。死んだ人間は、二度と生き返る事はない。だから、何も欲しくなかった。
 自分自身でさえ、欲しくなかった。



 バーを出たコーキは、男に連れられてラブホテルへとやってきた。表向きはビジネスホテルを名乗っているそうだが、システムや部屋の作りはどう見てもラブホテルのそれだ。コーキにとって生まれて初めてのラブホテルだった。
「なかなか綺麗な部屋だね」
 比較対象を知らないので、
「ええ」
 と、肩を竦めて曖昧に誤魔化す。
 ドアを開けると短い廊下があり、右の扉の向こうには浴室や洗面所、正面の扉の向こうには部屋の真ん中にベッドが鎮座する広々とした空間が広がっていた。ベッドは広く、成人の男二人で寝転んでもまだ余裕がありそうだ。ラブホテル、というものが初体験だとしても、ラブホテルがどういうものなのかくらいは知っている。これから起こるであろう事も予想がついていた。ベッドの端に腰掛けると、男はそのすぐ隣に座ってコーキの腰に腕を回す。
「怖い?」
 二人分の男の体重がベッドの端に寄り、スプリングが軋む。コーキは緩やかに首を左右に振る。怖くない、と言えば嘘になるが、今ならなんでもできそうな気分だった。それに、今までの自分を捨てるのにちょうどいい。壁一枚隔てた向こう側に男がいる状態で、初めてする腸洗浄はどこか気恥ずかしかった。
 今日は初めてばかりで新鮮な日だ、と思った。
 互いにシャワーを浴びて汗を流したところで、部屋の照明を落とし何も身に纏っていない状態でベッドへと潜り込む。さらさらのシーツの肌触りと、熱い程の男の体温が心地良い。男に抱き寄せられて、唇を重ねる。唇が触れるその瞬間にあった僅かな躊躇も、男の力でねじ伏せられてしまった。
 唇を割られ、舌が絡まる。吐息は熱く、燃えるようだ。キスをするのは、これが二人目だった。男の首に腕をまわし、もっと、とキスを強請る。口腔内をかき回される感触が好きだった。舌が粘膜を擦る度に痺れるような甘さが伝う。今まで経験してきたキスとは別種のそれに翻弄され溺れてしまいそうだった。唾液が口の端から溢れて、頬を汚す。それが更に垂れてシーツに堕ちそうになったところで、二人は唇を離した。
「キス、好き?」
 男に問われ、コーキは何も言わず頷く。男の巧みなキスに翻弄され溺れてしまいそうだった。男は何度かコーキの頭を撫でると、はっと何か思い出したように口を開く。
「そう言えば、キミの名前は? まだ訊いてなかったよね。僕は遼(はるか)っていうんだよ」
 言われてみて、コーキたちがまだ自己紹介をしていない事に気付いた。名前を知るよりも先にキスをしてしまったのか、と思うと少しだけ笑い出したい気分だった。
「広貴(こうき)」
 名前だけを簡潔に答えると、遼はにっこりと笑って、名前を何度か口の中で繰り返す。
「コーキくんね。改めまして、よろしく」
「……よろしく」
 なにが『よろしく』なのだろうか。わけのわからない挨拶をして、再び唇を重ねた。遼の手が、コーキの下腹にまわった。反射的に腰を引いてしまうが、もう片方の腕で腰を支えられているので逃げ切る事はできなかった。萎えたペニスに触れられて、身体を硬くする。セックスをするために遼についてきたわけだし、男同士のセックスも怖くはなかったはずだ。それなのに、いざ始まるのだと思うと不安感が増していく。
 遼の指が輪を作り、コーキのペニスを扱きあげる。そんなところを同性に触られる日が来るとは思っていなかった。男同士のセックスに抵抗はなかった。が、自分が当事者になる事は考えていなかったし、勃起できるかも不安だった。しかし、遼の手淫は巧みで、たちまちコーキを追い上げていく。
「んっ……」
 根本から先端まで絶妙な力加減で扱きあげられる。敏感な裏筋をくすぐられたかと思えば、尿道口から漏れ出る先走りの液体を亀頭に塗り込め、得も言われぬ快感をもたらした。勃起できるかわからない、という不安をよそに、コーキのペニスはすっかり勃起してしまっている。
「コーキくん、かわいい」
 可愛い、というそれが褒め言葉なのかどうかはさておき、腰が砕けてしまいそうな快感に翻弄されるコーキにはそれを判断する事が出来なかった。
「……っ遼さん……」
 ペニスを扱き続けていた手が、徐々にその奥へと目指して動く。そこはまだ、誰にも触れられた事のない場所だ。そうなる事を想定して洗浄したとは言え、まだ心の準備が出来ていない。奥を目指す遼の手首を掴み、慌てて止めると遼は不思議そうな目でコーキを見た。
「……え? 初めて、って事はないよね……?」
 遼の問いかけに、さっと目を逸らす。それが何よりも雄弁な肯定になってしまったようだ。
「そっか、僕がコーキくんのはじめて、か。あっさりついてきてくれたから、経験あるものなんだと思ってた。なんだか嬉しいな。……痛くしないから、リラックスして僕に全部任せて」
 そう言って遼は、普段意識する事もない排泄孔へと手を伸ばす。
「ん……」
「大丈夫だから、安心して」
 遼は一旦手を離すとコーキを仰向けにし、足を大きく左右に開かせた。その間に割り込むように座り、恥ずかしい部分を凝視する。普段晒す事のない場所に冷たい風と、遼の視線を感じてこの上なく緊張する。どこから取り出したのか、チューブ状の潤滑剤を指に塗りたくると、再び排泄孔へとあてがった。そこは入り口ではないはずで、簡単には入る事が出来ないはずだ。それなのに、たった一本の指と言えど飲み込んでしまうのは、きっと潤滑剤か、遼の手管のせいに違いない。
「どう? 痛くない?」
 問われて、少し思案してから言葉を紡ぐ。
「痛くは……ないです」
 痛みは全くない。ただそこにあるのは妙な異物感だけだ。
「よかった」
 遼はにこりと緩やかに笑む。優し気な笑みに少しだけ心が穏やかになったような気がした。
「それじゃ、この辺……とかどうだろう」
 遼の指が、ペニスの付け根の裏側あたりを擦り始める。
「んっ……!」
 するとどうした事か身体の芯を頭のてっぺんまで通り抜けるかのような、凄まじい電流が流れた。折り曲げた指で続けざまに擦られると、知らず知らずのうちに背が反り返る。シーツに縋るように爪をたてて皺が寄る。
「アタリ、だね」
 男の後孔に感じる場所があるのだという事は、知識の上だけで知っていた。だが、ここまで凄まじいものだとは想像していなかった。
「あっ……あっ……ソコ……!」
 感じ過ぎて、頭が真っ白になる。今は触れられていないペニスからだらだらと先走りの液体が漏れ出す。抗えない快楽に耐えようと、足の指先がきゅっと曲がった。
「コーキくん、素質あるね」
 何がおかしいのか、くすくすと笑いながら感じるその場所を刺激しつづける。気持ち良い事は、許容範囲を超えると辛ささえも伴うのだと、今はじめて知った。
「も、ダメっ……!やめてっ……!」
「だーめ。やめない。……このまま、イッていいよ?」
 呼吸が乱れすぎて、うまく酸素を取り込む事が出来ない。頭の中が快楽に支配されて、絶頂を目指す事でいっぱいになる。触られていないペニスがじんじんと震えて更に膨らんだ。思考が全て奪われ、自分が何だったのか、何をしていたのか、これから何がしたかったのか――そんな事は全てどうでもよくなり、頭の中が真っ白になる。
「あ……あ……ひぁあっ……」
 悲鳴ともとれるような声をあげて、絶頂を迎えた。精道を流れゆく勢いにこの世の至福を感じながら、子種を撒き散らす。その瞬間に後孔をぎゅっと締め付けてしまって、差し込まれた男の指を感じた。
「気持ちよかった?」
 遼はようやくコーキの中から指を抜き去る。抜き去るその瞬間の異物感に肩が震えた。
「……ヨカッタ、です」
 恥ずかしくて己の顔を覗き込む遼と目を合わせる事が出来なかった。それでも遼は満足したようだった。ふと、腹の上を指先で触られている事に気付く。
「もしかして溜まってた?よく飛んだね」
 一体何の話かと思えば――先ほど出した精液の話だった。顔から火が出そうな羞恥を憶えながら、自身の身体をよく見てみれば、下腹から胸元、それに肩あたりにまで白い液体が散ってしまっていた。遼はその液体を指先で掬うと、それがさも当然であるかのように自分の口元へと運んだ。赤い舌を出して白い精液を舐めるその姿はやけに妖艶で、色気がある。
「コーキくんも舐める?」
 見詰めていると、遼は精液を掬った指先を、今度はコーキの方へと向けてきた。
「いや……俺は……」
 自分で出したものを舐めるなんてどうかしている。できればそうやって近づけられるのも勘弁願いたい。
「……ま、いっか。次は僕も気持ちよくシテよ」
 どうやら舐めたくない、という意思だけは伝わったようだ。しかし、今度は指だけではない、本物のセックスがはじまる。一回イッた身としてはこのまま終わってしまってくれても何ら問題はなく――というかその方が都合がよかったりしたが、そんなに甘い話はどこにもないだろう。
「うわっ……!」
 遼はコーキの足を抱えてひっくり返すと、後孔が天を向くような、でんぐり返りの途中のような姿勢にする。足を抱えられているので、その体勢から動く事は出来ない。遼のペニスは勃起していて――他人の男の勃起を目にする機会があるとは思っていなかった。その勃起を後孔に宛がう。
「いれるよ」
 頷く前に、指とは違いするぎる質量のものが体内へ押し入ってくる。
「う……あ……」
 ずる、ずる、と、少しずつ、けれど確実に体内を侵食していく。先ほどまでの快感はどこへやら。入り口は微かに引き攣れるような痛みを訴えているし、体内は圧迫感で苦しい。
「コーキくん、深呼吸して」
 息を詰めると後孔が締まってしまうようで、遼は何度も深呼吸を促した。乱れる呼吸で無理矢理深呼吸をし、遼を受け入れる。身体の中に誰かがいる、というのは不思議な感覚だった。
「っ……!」
 コーキの腰を掴むと、一気に根本まで突き入れた。ずん、と脳天まで響くような衝撃があった。けれど動きはそこで止まり、孔は異物になれようとしているのかざわざわと蠢いている。灼熱の棒は鼓動と共に脈打ち、それがやけに生々しい。
「コーキくんのナカ、気持ちいいよ」
 額同士をくっつけて、遼はそう言った。どちらの額にも玉の汗が浮いている。男とセックスをしているのだ、という実感が今になって湧いてきた。どうせこの先どうなってもいい人生だ。明日死んだとしても惜しくはない。男に抱かれたところで何かが変わるわけでもない。全てがどうでもよかった。
「コーキくん、こっち見て」
 遼の方を見ていたはずなのに、遼はそんな不思議な事を言った。見上げた遼は何故か悲しげに微笑んで、律動を開始する。
「ひっ……!」
 内壁を剛直が擦りあげる。
「あ、待って……!」
 制止しても、遼がそれを聞く様子はない。ギリギリまで引き抜かれて、最奥を穿たれる。先ほど散々弄られた感じる場所は張り出したカリが擦りあげていった。尻の中が熱くて、けれど気持ち良かった。腹の奥に響くような突き上げかと思えば、感じる場所を先端で突かれて女のように悲鳴をあげる。
「気持ちいいの、好き?」
 耳元で囁かれて、必死で頷いた。快感に浸っている間だけは、他に何も考えずに快感にだけ集中できるのだと気付いた。無意識のうちに自分のペニスに手を伸ばしてしまっていて、更なる快感を求めて扱きあげる。
「淫乱」
 否定する言葉はない。出来る限り足を大きく広げて遼を受け入れながら、自身のペニスを扱く。それがどういう事なの深く考えもせず――考えられなくて、快感を追う。頭の中身が別の何かに入れ替わってしまったようで、じんじんと痺れている。指の先から足の先まで、汗に濡れた肌は愉悦を求めて熱くなる。感じる場所をごりごりと擦られて腰が否応なしに蠢いた。このまま快楽だけの世界に溺れる事が出来たら、一体どれだけ幸せなのだろうか。
 そんな事を、快感に侵された頭の隅で考えてしまう。肉欲が全てを奪い去っていくかのようだった。
「コーキくん……」
 そして、律動ははやくなる。今までの動きがコーキに快楽を与えるためのものだったとしたら、今度は遼自身が快感を追うためのものだ。勢いよく奥まで突きこまれて、痛みを感じてもおかしくないはずなのに、そこは貪欲に快楽ばかりを感じて脳髄に電気信号を送りこんでくる。
「ひぃぃぃっ」
 悲鳴も無視して動く遼は容赦なく感じる場所を擦りあげて奥を突いた。
「あっ……あっ……やあああああああぁっ……」
 先ほどイッたばかりだと言うのに、強制的に二度目の絶頂に押し上げられる。だが、遼の動きは止まらない。
「うっ……」
 絶頂を迎えたばかりの内壁を強く擦られて数度身悶えてから、遼はようやく低い呻き声と共に絶頂を迎えた。流れ込んでくる子種が、何も孕まない腹を満たした。



「家はどこ? 帰るなら送るけど」
 シャワーを浴びて、互いに着替えを済ませてホテルを出る準備をする。濃い夜だった、と思ったのに、時間にすれば三時間も経っていなかった。
「いえ、いいです」
 俺は短く断って靴を履く。
「もう夜遅いし、電車ないし、本当に大丈夫?」
 遼はコーキの後ろでそんな事を言う。まるで年頃の女子供にかけるような言葉だ。
「適当にどっか店入るんで、大丈夫ですよ」
 朝早かろうと、夜遅かろうと、電車が動いていようと、電車が止まっていようと、行くあてはない。帰る家はない。帰りたい家はない。行くあてはないけれど、多分どうにかなるはずだ。幸いな事にしばらくはどうにかなりそうな現金も持っている。
「……家出、とかじゃないよね?」
 その言葉にぎくりと肩が揺れる。家出という言葉は正確ではないが、それに似たような事をしている――。
「家出、なんだ? 行くところないならウチにおいでよ」
 そして、遼はそんな気軽な風にコーキを誘った。家出をしたつもりはなかった。コーキは困ったように肩を竦める。今日会ったばかりの他人を家に誘う事に抵抗はないのだろうか。
「いえ、いいです。遠慮します」
「遠慮なんてしなくていいから。僕とコーキくんの仲だし、ね?」
 遼とコーキの仲は今日初めて会った他人という関係だがそれでいいのだろうか。
「コーキくんの気の済むまで、いつまででもいていいから、さ。お金とかとらないし、食事もあるよ!」
 それでもなお遼は食いついてくる。どうやら冗談ではなく本気なようだ。一晩の宿泊だけではなくそれ以上も構わない、どういうつもりなのだろうか。
「結構です」
 間髪入れずに拒絶の言葉を口にした。一体何を考えているのか全くわからない。いくらなんでも、初対面の男の家について行ってしまう程不用心ではない。
「え! なんで? 家出中なんだよね? 行くとこないんだよね? なら一緒に住もうよ」
 けれど、遼はその拒絶に驚いたように目を丸めた。一緒に住む――それを本当に、今日会ったばかりの他人に求められる神経がわからない。我慢していた溜息が思わず出てしまった。
「なんでですか?」
 誰かを家に連れて帰るなら――一緒に住む相手なら、コーキでなくてもよかったはずだ。
「だってコーキくん、顔かわいいんだもん」
 顔が可愛い、それは家に連れて帰りたくなる理由になるのだろうか。コーキは脱力しがくりと項垂れる。一緒に住む相手の容姿を選べるならば、整っている方を選びたい気持ちはわからないでもない。が、顔がかわいいから一緒に住みたい、という気持ちは理解の出来ないものだった。
「俺なんかと住んでも、何も楽しくないですよ」
 人生に絶望した人間なんかと一緒にいても、生み出せるものは一つとしてない。今のコーキにあるのは後悔と絶望だけだ。
「僕さ、欲しかったんだよね。ペット」
「……は?」
 突然話を変えた遼の思考が理解できず、素っ頓狂な声をあげる。第一印象の『変な人』は真実味を増し『すごく変な人』へのグレードアップを遂げそうだ。
「ペット、だよ。ペットは働かなくてよくて、家でずっとごろごろしてていいんだよ」
 その説明で脳裏に犬や猫の姿が浮かんだが、遼が求めているのはそういう事ではないのであろう。嫌な予感がして一歩後ろへと退く。話が変わった、というのはどうやらコーキの勘違いだったようだ。
「で、僕をいつでも癒してくれる、癒しのペットが欲しかったんだ! コーキくんなら顔も可愛いし、理想的だなって思ってたんだけど」
 けらけらと無邪気な笑い声をあげるが、正気の沙汰ではない。一緒に住む、というのはペットとその主人として、という事なのだろうか。
「それで……そのペット、ですか……」
 コーキの言葉に力がないのは仕方のない事だろう。人間をペットにしたい、なんて非日常な事態が待ち受けているだなんて想像もした事がなかった。
「そ。ペットになったら衣食住はちゃんと保証してあげるし、家事だって僕がするしコーキくんが働く必要は何もないよ。コーキくんがする事はただひとつ、僕の相手、かな」
 魅力的な話なのではないか、と思いかけて、その考えを振り切るように頭をぶんぶんと振る。
「相手……」
 相手、というのはつまり、身体の相手、という事で間違いないだろう。――今日のセックスは決して悪いものではなかった。
「僕に愛でられて、ずっとのんびりする生活、したくない?」
 身体に残る快感の余韻がじくりと疼く。遼が言っている事が言葉の通りのままなら、決して悪くない話だ。
「どう? あ、もちろん、コーキくんが嫌がる事は何もしないよ。行き先、ないんなら結構いい条件だと思うんだけど」
 ぐ、と下唇を噛む。確かに条件は悪くない。けれど、ここで身を委ねてしまっていいものなのか――今目の前にいる柔和そうな笑みを浮かべた遼が、悪い人間ではないと限らないのだ。後日新聞に名前が載ったり、検死解剖の対象になったりするのは嫌だ。
――そこまで考えたところで、噛み締めていた唇を解放し軽く息を吐く。
 積み重なった後悔と絶望から逃げ出したかった。死にたいと思いながら、自殺をする程の勇気もなく彷徨っていた。誰も知らない場所へ行って、何もかも忘れたかった。過去を投げ捨て、思い出も投げ捨て、新しい自分になりたかった。それならば、これはいい機会なのではないか。不安が、ないわけではない。
 それでも――例え遼にこれから殺されるのだとしても、死にたい自分にはそれは本望なのだ、といい聞かせる。
「……俺を連れていってください。……遼さんのペットにしてください」
 そう言うと、遼はにっこりと笑みを作った。
「もちろん」
 差し出された手を取ると、指が絡まる。
 その温かみは、生きているという証明だった。



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